朝礼訓辞

平成30年12月 朝礼訓辞

 平成30年も、いよいよ最後の月となりました。
あっと云う間の1年でしたが、皆さん、一生懸命頑張って下さり、どうやら年を越せそうです。本当に有難うございました。

 今年1月より始まったNHKの大河ドラマ「西郷せごどん」もいよいよ来週は、終わりに近づき、クライマックスの「西南戦争」を迎えます。
 私は、1回も欠かさず観て来ました。
思想家の内村鑑三は、代表的日本人の筆頭に「西郷隆盛」を挙げましたが、徳川幕府を倒し、明治維新を成し遂げ、近代日本の礎を築いて来た過程が、このドラマでよく解ったような気が致します。

 西郷は征韓論に敗れ、鹿児島に帰り、明治7年、鹿児島私学校を造りましたが、実は種子島でも、西郷に賛同する士族たちが集まり「私学校種子島分校」を明治9年に造っています。
 明治10年の「西南戦争」に参加した士族は、1万5千人と云われていますが、この中に種子島から411名が参加しています。
 明治10年2月8日、種子島から参加した士族411名は島内の各地から参集し、西之表の民家などに分散して泊まり、鹿児島から迎えに来る「寧静丸」という汽船を待っていました。
 所が、生憎、当日は雨風が激しく、西風も荒れ狂い、赤尾木湾に着くことが出来ず、田之脇の港に着きました。
 西之表から田之脇に向け、行進する種子島士族の隊列を島内各地から集まり見送った人々の熱烈な送別の風景はそれはそれは見事なもので涙と雨で袖を濡らし、松明をかかげ、雨音に負けじと声の限り、別れの言葉を掛け続けたと「種子島私学校同盟」という本に出ています。
 鹿児島に到着した種子島私学校同盟の志士達は、西郷の軍勢1万5千人に加わり、明治10年2月15日、一路熊本へ向ったのです。
 熊本城で待ち構えていた政府軍(官軍)は新式の銃などを装備していて、西郷軍の激しい闘いにも拘らず、各地で西郷軍は敗戦を重ね、最後の田原坂で西郷は敗北を認め、8月17日、宮崎の延岡に逃れます。
 しかし、官軍の執拗な追跡に会い、延岡から南九州の山岳を駆け抜けて鹿児島へ引き返しました。
 城山に辿り着いたのは、372名で、城山に陣を張りましたが、政府軍の総攻撃を受け、「西郷の自決」を最後に西南戦争は幕を閉じました。
 時に明治10年9月24日未明のことでした。西南戦争は約7ヶ月の戦いでした。
 西郷軍の死者は7000人とも云われていますが、種子島私学校の戦死者は108名でした。
 これらの人々は東町の玉川招魂の碑に奉られています。

 所で、「西郷さん」は不思議な人で写真が1枚も残されていないのです。何でだろうといつも思っていましたが、江戸時代末期から明治にかけ、写真の技術が日本に入って来た時、民衆の間で写真に撮られると、魂が抜けるとの噂が広がったのだそうです。
 西郷さんもこの類なのかと思っていました。
この魂を抜かれるという、噂というか迷信は今でも立派に日本人の間に残っています。
 その例は、私達は小さい時から、3人一緒に写真を撮ると、眞中の人は死ぬというふうに云われた記憶はありませんか。

 西郷が写真を残さなかった最大の理由が解りました。
それは、西郷が京都に居た時、精神的指導を受けていた京都清水寺の僧「月照」が、徳川幕府に追われていたのを知った西郷が鹿児島に連れて来たのです。
 この時、あたかも同じ時期に西郷が頼りにしていた殿様の島津斉彬が急死するのです。悩んでいた西郷は、同じ苦しみの中にいる「月照」と錦江湾に2人一緒に飛び込み入水自殺をはかりました。
 ところが、月照だけが死に西郷は助かるのです。
西郷はいつも、自分だけ生き残ったことを悔やみ続けます。
 自分は一度、墓に入った人間だ、云うなれば「土中の死骨」であるといつも云っていましたが、一度死んだ筈の人間が、この世に「恥かしき生」を残すことを強く意識して、決して写真に写らなかったというのが最大の理由のようであります。

 来年が皆さんにとって良い年でありますように。そして「せいざん」もグループホームの充実、訪問看護やB型支援事業所の充実など、皆さんと力を合わせ種子屋久の精神科医療のために、頑張って参りましょう。
 よろしく、お願い申し上げます。

  森 友和 著「種子島私学校同盟」より 

医療法人純青会 せいざん病院
理事長  田上 容正

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