朝礼訓辞

平成28年10月 朝礼訓辞

 リオディジャネイロオリンピックもパラリンピックも終わり、さまざまな感動と感激を残し、
4年後の2020年には、東京で開催されることが決まって居ります。

 私はその年、もし生きていれば85才です。出来れば元気で皆さんと一緒に、
今のように働いていたいものだと願っています。

 パラリンピックに出馬した選手のひたむきな姿、目の輝きを忘れることは出来ませんが、
障害者は運動だけではなく、音楽や芸術、文学などでも健常者と変わりない成果を上げ、
私達に喜びや希望を与えて呉れるのです。

 山野井昌子さんという83才の今も元気に活躍しておられる歌人が居られます。
「車椅子」という歌集や今の皇后陛下が美智子妃殿下であられた頃「浜木綿のかげ」という
歌集を献上されたこともありました。

 山野井さんは、7ヶ月の未熟児として生まれ、生後数ヶ月してから小児マヒに罹り、
障害者としての道を歩まれることになったのです。

若い頃、「この子は、20才くらいまでしか生きられない」と云った言葉を耳にして、
私は何のため、こんな身体で生まれて来なければならなかったのだろう。

いっそう、死ぬことが出来たらと苦悩しますが、両親を悲しませないように家の中で
雰囲気が暗くならないようにと一生懸命振舞っていました。

 決して泣くまいと思っていましたが、生涯に一度だけ声を張り上げて泣いた日が
あったそうです。
それは、7歳になった年の11月の七五三の日の午後のことでした。

 その日は、11月でもう寒く、小児マヒによる手足の硬直とけいれんがひどくおまけに
風邪気味で熱もありました。
 家の者も、七五三については敢えて誰も触れようとはしませんでした。

けれでも、向かいに住む同じ年の女の子がきれいな着物を着て千歳飴を持って
訪ねて来て呉れたのです。
その姿を見て、彼女は情けなくなって、友達を見送ってから
「私なんか生まれて来なければよかった」と声を張り上げて泣きじゃくったのでした。

 しかし、泣き疲れたあと暗くなった家族の雰囲気を感じ取ったあと、こう決意したのです。
両親も私を初めから、こんな身体で生もうとは思っていなかった筈だ。私が泣いたりすれば、
両親を悲しませてしまう。

人間一人一人が弱い存在なのだ。そうだ強くなろう。どんなに苦しくても諦めず、
反対に明るい笑顔で生きよう!と。

 そんな或る日、お母さんが一冊の本を、そしてたまたま、お父さんも一冊の本を
買って来て呉れました。それ以来、二冊の本を歯でペンを咥え、唾で本がふやけるまで舌で捲って、
繰り返し繰り返し読み、一生懸命に勉強したのです。そして短歌の世界にのめり込み、
大きな業績を残して居られるのです。

 身体は不自由かも知れないが、感情や思いは健常者も障害者も皆、同じだということを学び、
健常者であれば得られなかった感謝の心や自分の努力により何でも達成できることを、
そして今は精神的な宝に恵まれた人生だったことを知り、
今でも短歌作りに励んで居られるのです。

  

 私達も頑張りましょう。自分のためにそして人のために。
心を病む人に囲まれた仕事に従事出来ることを感謝しましょう。

「致知9月号」より

医療法人純青会 せいざん病院
理事長  田上 容正

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