朝礼訓辞

平成27年6月 朝礼訓辞

 先月は、ロシアの文豪ドフトエフスキーの「一本の葱」の話をしましたが、
今月は、日本の代表的作家芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のご紹介をしたいと思います。

 或る日のことです。お釈迦様が極楽の蓮池の淵を歩いて居られました。蓮池の下は、
丁度地獄の底に当たり、三途の川や血の池や針の山の景色が見られたそうです。
 お釈迦様がふと目をやると、地獄の底に犍陀多(かんだた)という男が一人、他の罪人と一緒に
蠢(うごめ)いている姿が目に入りました。この男は人を殺したり、家に火をつけたり、いろいろ
悪事を働いた大泥坊でしたが、それでも生前、たった一つ善いことをした覚えがありました。

 生前の或る日のこと、この男が深い林の中を通っていると、小さな蜘蛛が一匹路端を這って
いくのが見えました。足を上げて踏み殺そうとしましたが、「いやいや、これも小さいながら、
命あるものに違いない。その命を無暗にとるということは、いくら何でも可哀想だ。」と
急に思い返して、とうとう踏み殺さずに助けてやったことがあったのでした。地獄の底の血の
池で、他の罪人たちと一緒に浮いたり沈んだりしていた犍陀多を見て、お釈迦様は可哀想に
思い、これを助けてやろうと一本の蜘蛛の糸を垂らして下さいました。

 犍陀多は目の前にするすると垂れて来た蜘蛛の糸にすがりつき、これで俺も助かったぞ、
天国にも行けるかも知れないぞ、と糸をたぐり寄せ、じわじわと登り始めました。
 どんどん登って行く中に疲れて一休みしようと下を見たら、他の罪人どもが同じように蟻の
行列のようにつらなって登って来るのが目に入りました。これは不可(いけ)ない大変だ、
糸が切れたら自分も落っこちてしまうと思うと、ついて登って来る罪人どもを足で蹴落として
しまいました。するとどうでしょう、蜘蛛の糸が犍陀多の上の所でぷつりと切れ、
眞下かさまに、血の海の地獄の底に落ちてしまいました。
 お釈迦様は極楽の蓮池の淵にそって、この一部始終を見て居られましたが、悲しそうな顔を
なさり乍ら、また、ふらふらと歩き始められたのです。

 「一本の葱」も「蜘蛛の糸」の話も、ともにどんな罪人であっても、心のどこかには必ず
慈悲の心というものがあるということ、それによって人間は救われるものであること、
また、自分だけ良い目に会おうとするエゴイズムというものが他人をも不幸に陥れるとともに、
自分を破滅に導くのだということを教えています。

 6月、いよいよ梅雨に入りました。食中毒に注意しましょう。
今月も体に気を付けながら、一緒に頑張りましょう。 よろしくお願い申し上げます。

医療法人純青会 せいざん病院
理事長  田上 容正

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