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今年75才になられた松崎運之助という方が、長崎に住んでおられます。夜間中学校の教師を30年以上勤め上げ、その後「路地裏活動」というものをずっと続けて来られた人です。
路地裏というのは、太平洋戦争に敗れた日本が貧乏のどん底にあった頃、トタン屋根のバラックに住んだり、川べりの長屋などに住み、水道が眞中にたった1つあったり、便所も共同便所、そこに人は集まり、日常生活を営んでいたような所です。
この路地裏で人々は慰め合い、いたわり合い、お互いに助け合って生きて来たのです。
松崎先生は終戦の年、満州(今の中国)で生まれ、戦後やっと長崎に引揚げて来られました。
父はなく、弟が1人、妹が1人、それに母親との4人暮らしでした。お母さんは家族を養うため、朝早くから土方仕事に出掛け、夜はまた、飲み屋で働きました。
松崎少年は、いつも幼い弟と妹の手をしっかりと握りしめ、夜おそく母の帰りを待つようになり、母の姿が遠くに見えると、3人で歓声をあげ母の元へ一直線、飛びついたり、押したり、引いたり大騒ぎでした。
でも明くる日、学校へ行くと、毎朝、衛生検査というものがあり、爪を切っているかハンカチや塵紙を持っているかチェックがありました。松崎少年は、いつもだらしない、不潔だ、忘れものが多いと、ののしられ先生に叩かれました。
しかし松崎少年は、それを決して忘れていた訳ではありませんでした。母に云うと母は無理をするからと思い、「お母さんあれ買って」と決して云わなかったのです。
「お前の母さん何しとるんや」と云われた先生の言葉は、ずっと松崎少年の心に傷になったと、述懐しておられます。
中学卒業後、母を助けたいと、長崎の造船所に就職しそれからは働きながら、夜間学校に通いました。その後、進学したいと上京し、昼は働きながら、夜は明治大学の夜間部に入り、勉強して、教員免許を取りました。そして教育実習で夜間中学に行ったあと、そのまま、就職し30年も勤めあげました。
夜間中学には、戦後の混乱で学校へ通えなかった人、不登校になった人、病気で学業に専念できなかった人、朝鮮や中国の残留孤児や、発展途上国から日本に働きに来た人もいましたが、大半が昼間に仕事をしながら、夜、勉強をしていたのです。
「私の夜間中学実習での心の重さは、たとえようがありません。私を観念的な境地から引きずり落とし、大地に足をつけさせて呉れた。本当の教育、本当の対話、新鮮な感動を知った。そして本物の教師を知った。涙を流した。ワンワン泣いた。笑った。全身が怒りにふるえた。遊んだ。一生懸命遊んだ。学校が素晴らしい。教師をいう職業が素晴らしい。今そう断言できるようになった」と述べて居られます。
お母さんは松崎少年に向って「社会に恩返しをしなければいけない、自分さえ良ければそれでいい、という考えはとんでもない」といつも仰言っていました。
松崎先生は「自分は誕生日にプレゼントを貰ったことは一度もない。私にとっての誕生日は、正座して母の話を聞く日でした。そして自分を生んでくれた母親に感謝する日だったのです」と述べられています。
そして退職後もずっと、路地裏で親のない子、家のない子、恵まれない子、貧しい子供たちと一緒に、今でも活動しておられます。
「命そのものが豊かで奥深い、命というものは輝かしいものである」
松崎先生の言葉には眞美があると思います。
私達も医療という仕事を通して、少しでも、人の心を思いやる人になりたいものです。
新型コロナと通年のインフルエンザが同時にやって来るかも知れません。感染に注意して今月も一緒に頑張りましょう。
「致知11月号」より
医療法人純青会 せいざん病院
理事長 田上 容正